◆ 外国語副作用
慣れない外国語を使うのが難しいということは、誰もがよく知っています。しかし、その慣れない外国語を使っている最中には、思考力が低下するという事実は、あまり認識されていません。このページでは、なぜ思考力が低下するのかを説明します。
思考力が低下する理由については、私の研究で初めて理論的に説明がなされたのですが、その研究では、この思考力の低下を 「外国語副作用」 と呼んでいます。外国語を学べば、その外国語を使ってコミュニケーションができるようになるという望ましい効果があります。しかし、その一方で、外国語をまだうまく使いこなせないうちは、思考力が低下するという望ましくない副作用も生じるのです。
正確に言うと、 「外国語副作用」 というのは、母語ほどには習熟していない外国語を使っている最中に、一時的に生じる思考力の低下です。
外国語副作用は、あくまでも、不慣れな外国語を使っている最中にかぎって生じる「一時的」な思考力の低下です。 「外国語を学ぶと、その後遺症で頭が悪くなってしまう」 という現象ではありません。外国語を使っていないときには、思考力の低下は生じません。
外国語に習熟して、母語とまったく変わりなく使いこなせるようになれば、外国語副作用は消失します。つまり、思考力の低下は起きなくなります。
よく誤解されるのですが、外国語副作用は、 「外国語を使うのは難しい」 ということではありません。その難しい外国語を使っている最中には、そのしわ寄せで、母語を使っているときに比べて思考力が低下する、という現象なのです。
◆ 外国語副作用はなぜ起こるのか?
ここでは、注意の資源理論を使って、なぜ思考力が低下するのかを説明します。(資源理論を使うのは、直観的に理解しやすいからです。外国語副作用は他の理論でも説明できます。後で述べるように、外国語副作用は実験的な事実であって、特定の理論に依存しているわけではありません。)
たいがいの場合、何かをうまくやるためには注意を向けることが必要です。不注意は失敗のもとになります。注意の資源理論では、 「注意を向ける」 ということは、 「認知資源を使う」 ということなのだと考えます。この理論によれば、頭のなかで行なっているたいがいの情報処理は認知資源が必要で、認知資源がないと情報処理が進みません。ところが、この認知資源には限りがあります。その限りある認知資源 (limited resource) の量を長方形の面積で表すことにしてみましょう。
Aという情報処理 (processing A) をおこなうために必要な資源の量は、下の図では、赤い横縞の入っている長方形で表されています。必要なだけ資源が使えるので、情報処理Aはつつがなく遂行することができます。
情報処理Bをおこなうために必要な資源の量は、緑の縦縞の入っている長方形で表されています。情報処理Bだけをおこなうのであれば、資源は充分にあるので、情報処理Bもつつがなく遂行することができます。
ところが、情報処理Aと情報処理Bを同時に行おうとすると、 「Processing A + B」 の図に表されているように、青い四角が囲っている部分に相当する量の資源が足りなくなってしまいます。したがって、この2つの情報処理を同時に行うと、互いに干渉する (邪魔し合う) 結果になって、うまくいきません。情報処理Aを優先すると情報処理Bの成績が下がり、逆に、情報処理Bを優先すると情報処理Aの成績が下がります。両方ともしっかりやろうとすると、両方とも成績が下がってしまいます。
一方、特定の情報処理を練習すると、少ない資源でもその情報処理ができるようになり、練習を充分に積めば、最終的には、全く資源を使わずに情報処理をすることもできるようになります。これを 「自動化」 と呼びます。情報処理Aは、はじめは 「Processing A」 の図で赤い四角が囲っている部分に相当する資源を必要としますが、練習を積んだ結果、 「After practice」 の図に示されているように、必要な資源の量が減少したとします。そうすると、情報処理Bと同時に行なっても、資源は足りなくはなりませんから、どちらの成績も下がらないということになります。
私たちが日常おこなっている言語活動では、人の話を聞きながら考え、また、いろいろと考えながら話しています。すなわち、言語処理と思考という2つの情報処理を同時におこなっていることになります。
ここで言う 「言語処理」 というのは、音声の分析や文字の認識、単語の同定や文法的な分析のように、言語の入出力と直接関わる情報処理のことです。一方、 「思考」 というのは、言語の入出力とは直接には関わらない情報処理のことです。
たとえば、私たちが議論をするときには、相手が今言ったことがさっき言ったこととどう関係しているのかを考えたり、相手の主張が正しいのか間違っているのかを考えたり、反論するためにはどういう具体例を持ち出せば効果的かを考えたりします。これらの 「考え」 は、どれも音声の分析や単語の同定とは違い、言語を直接の対象とはしていない情報処理です。ここでは、そうした情報処理を 「思考」 と呼んでいます。日常生活の中では、この 「思考」 と言語処理を同時に進めているわけです。
下の図では、言語処理に必要な資源の量は、赤い横縞の入った長方形で、思考に必要な資源の量は、緑の縦縞の入った長方形で表してあります。
母語は、生まれたときから、たゆみなく練習を続けてきたことになるので、母語の言語処理はかなり自動化が進んでいて、必要な資源の量はあまり多くありません ( 「Native language」 の図で赤い四角で囲ってある部分)。したがって、同時に思考をおこなっても、足りない資源の量 (青い四角で囲ってある部分) はそれほど大きくありません。すなわち、思考に対する干渉 (妨害) は、あまり強くないということになります。
ところが、不慣れな外国語の場合は、練習量が母語の場合に比べればずっと少ないので、自動化があまり進んでおらず、大量の資源を必要とします ( 「Foreign language」 の図で赤い四角で囲ってある部分)。そのため、同時に思考をおこなうと、足りない資源の量がずっと多くなります ( 「Foreign language」 の図で青い四角で囲ってある部分)。その結果、外国語の処理による思考への干渉 (妨害) は、ずっと強くなります。
思考のために使える資源の量は、母語を使っているときには、かなり多いのですが (下の 「Native language」 の図で青く塗ってある部分)、外国語を使っているときには、かなり少なくなってしまいます (下の 「Foreign language」 の図で青く塗ってある部分)。使える資源の量が赤い両矢印で示されている分だけ減ってしまうので、思考の質もそれだけ低下してしまうことになります。これが 「外国語副作用」 です。
外国語副作用がなぜ生じるのかは、このように、注意の資源理論にもとづいて説明することができるのですが、では外国語副作用が生じることは確実なのかというと、必ずしもそうとは言いきれません。下図のように、相対的には、外国語の処理は母語の処理より多くの資源を要するとしても、その絶対量としては、それほど多いわけではなく、思考と同時におこなっても、資源が足りなくなることはないということも、可能性としては考えられるからです。資源の量が充分であれば、外国語の処理が思考に干渉することはなく、外国語副作用が起きることもないということになります。
したがって、外国語副作用が起き得るということを理論的に説明できただけでは、実際に外国語副作用が起きるのかどうかは分からないことになります。それを知るためには、実験をやってみて、外国語副作用が本当に観察されるのかどうかを調べなくてはなりません。
◆ 外国語副作用の存在を立証する
すぐに考えつくのは、こんな実験でしょう。すなわち、母語条件と外国語条件を設け、母語条件では思考を必要とする問題を母語で提示して母語で答えてもらい、外国語条件では問題を外国語で提示して外国語で答えてもらう、という実験です。もし、外国語条件で、母語条件に比べて成績が低ければ、 「外国語を使っているときには、思考力が低下する」、つまり、 「外国語副作用が存在する」 と結論するわけです。
しかし、このような実験では、外国語副作用の存在を立証することはできません。というのも、成績の低下が本当に 「思考力の低下」 を表しているのか、それとも、単に 「外国語が難しい」 ということを表しているだけなのか、見分けることができないからです。
たとえば、外国語で提示された問題がよく理解できなかったという場合には、成績は低下しますし、あるいは、答は分かっているのに、それを外国語でうまく表現できなかったという場合にも、成績は低下します。こうした場合には、成績の低下は、単に 「外国語が難しい」 ということを反映しているだけであって、 「思考力の低下」 を反映しているわけではありません。したがって、このような実験では、外国語条件で成績の低下が見られたとしても、 「思考力の低下」 が起こったとは結論できないわけです。
この問題を克服するために私が使ったのは、注意の研究で考案された 「二重課題法」 という実験方法でした。この二重課題法では、被験者は2つの課題を同時に遂行します。その2つの課題のあいだにどの程度の干渉が生じて、どの程度の成績低下が生じるのかを調べるのです。
私の実験では、被験者に、 「言語課題」 と 「思考課題」 という2つの課題を同時に遂行してもらいました。日常の言語活動では、 「人の話を聞きながら考え、また、考えながら話す」 ということをしていますから、まさに二重課題の状況になっているわけですが、それを実験的にシミュレート (模倣) したことになります。
言語課題では、母語条件では母語を使い、外国語条件では外国語を使いますが、思考課題では、外国語はいっさい使いません。したがって、思考課題の成績が外国語条件で低下した場合、その成績低下は、単に 「外国語を使うのは難しい」 ということを表しているわけではないということになります。たとえば、 「外国語で提示された思考課題の問題がよく理解できなかったので、思考課題の成績が低下した」 というようなことはあり得ないわけです。とすれば、その成績低下は、 「外国語を使うのは難しい」 ということではなく、 「その難しい外国語を使っている最中は、そのしわ寄せで、思考力が低下する」 ということ、つまりは外国語副作用を表しているということになります。
学会や講演で外国語副作用の話をするときには、この点を理解してくださらない方が必ずいらっしゃって、いつも難儀することになります。
もう30年以上前のことになりますが、私が留学先のアメリカの大学で初めておこなった外国語副作用の実験では、思考課題として、2桁の数字の足し算を使いました。
上の図のように、2桁の数字が行列の形に印刷してあり、隣り合った数字を足しては、答を間に書き入れるという課題です。当時は、貧しい大学院生の身で、研究費が使えたわけではなかったので、こんな安上がりな課題を考えたわけです。
留学生仲間の日本人たちに頼んで、被験者になってもらったのですが、その中に、後に京都大学の言語学の教授になった人がいて、この人はものすごく計算が速く、多めに用意しておいた用紙 (2桁の数字を印刷した用紙) が足りなくなりそうになって慌てたことがありました。帰国してから、外国人を対象にした実験もおこないましたが、その人たちの計算量は、多くても、この人のせいぜい半分ぐらいでした。
一方、言語課題のほうは、常識を問う簡単な問題に短く答えるという課題でした。たとえば、 「ライオンは空を飛ぶ動物ですか?」 というような文が、10秒に1つの割合でテープレコーダーから聞こえてきて、被験者は、それに 「はい」 とか 「いいえ」 とか答えました。
この言語課題の文は、母語条件では母語で、外国語条件では外国語で読み上げられました。被験者が日本人の場合には、母語条件では日本語、外国語条件では英語が使われました。被験者が英語話者 (native speakers of English) の場合には、母語条件では英語、外国語条件では日本語が使われました。
実験には、母語条件と外国語条件のほかに、統制条件も設定しました。この統制条件では、言語課題はなく、被験者は思考課題だけをおこないました。
まず、言語課題のほうの成績ですが、全20問のうちの正答数を平均し、その平均値を縦軸にとってグラフで表すと、次の図のようになりました。日本語話者の場合も、英語話者の場合も、母語条件に比べて外国語条件での成績が低い、という結果でした。これは 「あたりまえ」 の結果ではありますが、 「母語ほどには外国語には習熟していない」 という外国語副作用の前提が満たされていたことを示しています。
重要なのは、言語課題の成績よりも、思考課題の成績です。思考課題の成績は、 「干渉率 interference rate」 という指標で表してあります。この指標は、思考課題だけをおこなった統制条件での成績をベースラインとして、同時に母語で言語課題をおこなったとき (母語条件) の成績、あるいは、 同時に外国語で言語課題をおこなったとき (外国語条件) の成績が、そのベースラインの何パーセント低下したかを表しています。下の図では、縦軸にその干渉率が目盛ってあります。
この図からわかるように、言語課題を母語でおこなったときにも、同時におこなった思考課題の成績は低下しました。しかし、言語課題を外国語でおこなったときには、思考課題の成績はそれ以上に大きく低下しました。日本語話者の場合も、英語話者の場合も、結果は同様でした。
思考課題では外国語はいっさい使わなかったのですから、外国語条件で思考課題の成績が低下した原因は、単に 「外国語は難しい」 ということだったはずはありません。たとえば、 「外国語の問題文がよく理解できなかったので、成績が悪くなった」 ということが原因ではないはずです。 「言語課題のほうで難しい外国語を使っていたため、そのしわ寄せで、思考課題がうまくできなくなった」 としか考えられません。つまり、外国語副作用が生じた、ということになります。
上の図では、母語条件と外国語条件のあいだで生じた思考課題の成績の差が赤い両矢印で示してありますが、この両矢印の長さが外国語副作用の大きさを表していることになります。
◆ 実験結果の解釈にあたって注意すべきこと
両矢印の長さは、日本語話者よりも英語話者のほうが長くなっています。すなわち、この実験では、外国語副作用は英語話者のほうが大きかったわけですが、 「一般に、英語話者のほうが外国語副作用は大きい」 というわけではありません。
言語課題のほうの成績を表した先ほどのグラフを見ると、母語条件と外国語条件の差は、英語話者のほうが大きくなっています。つまり、外国語の習熟度は英語話者のほうが低かったわけで、このことが原因で、英語話者の外国語副作用が大きくなったと考えられます。
この実験の日本語話者は、アメリカに留学していた日本人でしたが、英語話者は、アメリカやカナダなどの英語圏から日本に留学してきていた学生でした。日本語話者は中学生のときから英語を学んでいたわけですが、英語話者は、せいぜい大学生になってから、あるいは、日本に来てから日本語を学び始めたわけですから、英語話者のほうが外国語の習熟度が低くなっても、すこしも不思議ではありません。
また、赤い両矢印で表された外国語副作用の大きさは、10%から20%弱といったところですが、外国語副作用は常にこの程度の大きさなのかというと、そういうわけではありません。
この実験では、10秒に1つの割合で文が読み上げられましたが、読み上げと答えにかかる時間は、せいぜい3秒から4秒で済むので、残りの6秒から7秒のあいだは、被験者は思考課題だけに集中することができました。したがって、外国語条件でも、思考が外国語の処理に妨害される時間は、それほど長くはなかったと考えられます。もし5秒に1つの割合で文が読み上げられていたら、思考課題の成績低下はもっと大きくなっていて、外国語副作用ももっと大きくなっていたことでしょう。
また、この実験では、限られた種類の単純な文型が繰り返し使われていました。 「ライオンは空を飛ぶ動物ですか?」 「オートバイは交通の手段として使われるものですか?」 ...といった具合です。日常的な言語活動で使われる文型はもっとバラエティに富んでいますし、もっと複雑な文型が使われることも少なくありません。したがって、文の文法的な分析の負担はずっと大きくなることが多いでしょう。そうした場合には、言語処理がずっと難しくなるので、外国語副作用も大きくなると考えられます。
外国語副作用については、この実験のほかに様々な実験をおこなってきました。それらの実験によって、外国語どころか言語そのものを使う可能性がほとんどないような思考課題でも外国語副作用は生じること、母語と似ていない外国語ほど外国語副作用は大きくなること、日常的な場面でも外国語副作用は生じうること等が明らかになっていますが、まだ一部しか論文になっていません。
◆ 文献
1) Takano, Y. & Noda, A. (1993) A temporary decline of thinking ability during foreign language processing. Journal of Cross-Cultural Psychology, 24, 445-462.
2) Takano, Y. & Noda, A. (1995) Interlanguage dissimilarity enhances the decline of thinking ability during foreign language processing. Language Learning, 45, 657-681.
Takano_&_Noda-1995-Language_Learning
3) Takano, Y. & Yagyu, T. (2021) Foreign language side effect when inner language is suspected to accompany thinking: Lowered thinking ability in daily verbal communication. 『認知科学』(Cognitive Studies), 28(2), 271-281.