大学に入学したとき、私は「認識論を科学的に研究したい」という思いを抱いて、心理学を専攻に選びました。心理学がどういう学問なのか、実はよく知らなかったのですが、「認識論を科学的に研究するには、心理学がいちばん適しているのではないか」と勝手に思い込んで、民族学を勉強するために入った大学を退学し、心理学の勉強ができる大学に入り直したのです。ところが、じっさいに心理学の勉強を始めてみると、当時の実験心理学は行動主義全盛の時代でしたから、ネズミの条件づけの話ばかりで、「これで、どうすれば認識論の研究ができるのだろう?」と途方に暮れることになりました。
いたしかたなく、多少は認識論と関連のある「知覚」を卒業論文のテーマに選びました。大学院に入ってからは、もう少し認識論と関連が深そうな「記憶」にテーマを変えました。当時、私が所属していた大学院には記憶を専門とする先生はいらっしゃいませんでしたので、完全に独学で研究を進めなければなりませんでした。
修士課程に在学中、アメリカでは「認知心理学」という新しい心理学が勃興してきていることを知りました。いろいろと見聞きしたり、文献を読んだりしているうちに、「認知心理学」というのは、まさしく「科学的な認識論」にほかならないということがわかってきました。大学に入ったときの私の直観は、結果的には、間違っていなかったわけです。その後、現在に至るまで、私は長らく認知心理学の研究を続けてきました。
40年あまりの研究生活を振り返ってみると、自分の研究活動の特徴として、いくつか目につくことがあります。
1) 独自性へのこだわり
私は「独自の貢献ができそうだ」と思ったテーマについてしか研究をしてきませんでした。「放っておいても誰かが研究するだろう」と思ったテーマには、それがどれほど流行っていようと、手を出しませんでした。
逆に、「独自の貢献ができそうだ」と思えば、何にでも手を出してきました。その結果、形態認識、言語、思考から日本人論に至るまで、何ともまとまりのない研究成果が並ぶことになってしまいました。
ずっと同じ分野で研究を続けていれば、専門知識にも通暁するようになりますし、その分野のエキスパートとして敬意を払ってもらえるようにもなり、論文も採択されやすくなります。
一方、「独自の貢献ができそうだ」と思って、まったく新しい分野に参入することを繰り返していると、その度に、新たに膨大な量の文献を読みこなして専門知識を身につけなければなりませんし、「門外漢」と見られて論文がなかなか採択されませんし、茨の道を歩むことになります。業績が論文数で評価されることの多い今の学界にあっては、あまり賢いやり方ではないかもしれません。しかし、大学運営でも学会運営でもなく、研究がしたかった私にとっては、楽しい研究人生の送り方だったことも確かです。
2) 論理性へのこだわり
私は「論理の筋が通っていない」と感じると、どうにも居心地が悪くて、そのままにしておくことができません。たとえば、自分が組み立てた理論による説明に、どこかすっきりしないところがあると感じると、その違和感が解消できるまで、いつまでも考え続けることになります。その理論で説明する方法を考え出すか、理論を修正するか、いずれにしても、「論理的に筋が通っている」と感じるようになるまでは、考えることが止められません。
「いい加減なところで切り上げて、あとは研究者仲間との議論の種にして楽しむ」という研究のやり方もあるかとは思うのですが、性分なのでしょう、自分ではそういうやり方ができません。何か解決すべき問題が出てくると、机の前にいるときにはもちろん、歩いているときにも、電車に乗っているときにも、風呂に入っているときにも、絶えず考え続けることになります。
最近では、「鏡と正面からではなく、斜めに向かい合ったときの鏡映反転をどう説明するか」という問題に直面したときがそうでした。研究室で考えついた答にどうも納得がいかず、帰途についた夜空の下、大学構内の坂を上野公園のほうに下りていきながら考え続けていたときのことを、つい先程のことのように思い出します。上野公園の中を歩いているときにも、電車に乗っているときにも考え続けたのですが、1ヶ月だったでしょうか、2ヶ月だったでしょうか、毎日のようにそれを繰り返していました。結局、幾何学的ベクトルを使った複雑な説明で論理の筋がきれいに通り、違和感が解消したのですが、その説明には、やはり簡単には辿り着けなかったわけです。
3) 差別への挑戦
私が生まれたときの日本は、まだアメリカの占領下にありました。物心ついてからも、一方ではヴエトナム戦争に絡むアメリカ批判の言説が巷に溢れ、もう一方では欧米礼賛の言説も巷に溢れていました。アメリカの影を強く意識せずにはいられない青春時代でした。
アメリカ人がアジアやアフリカの人びとを蔑視しているということは、知識としては知っていましたが、アメリカに留学し、数年間をアメリカで過ごすうちに、そのことを肌で実感するようになりました。
こうした他の人間集団への蔑視が、欧米諸国によるアジア、アフリカ諸国の植民地化から、日本の近隣諸国への侵略に至るまで、多くの人びとに苦しみをもたらしてきたということも、強く意識するようになりました。その結果、「差別意識の解消に少しでも役に立つ研究をしたい」という思いが、私の研究テーマの選択に少なからぬ影響をおよぼすことになりました。
「中国人と日本人は、母語の欠陥のせいで、科学的思考能力が欧米人よりも劣っている」というアメリカの言語心理学者の研究を精査して、その実験結果が手続ミスの産物だったということを証明した研究も行いましたし、アメリカ人の価値観からみれば厭うべき「集団主義」を、日本人をはじめとするアジア人の特性としてきた通説を調べ、それが実証データには支持されていないことを明らかにした研究も行いましたが、いずれの研究にも、根底には同じ問題意識が流れていました。
「慣れない外国語を使っている最中は、一時的に思考力が低下した状態になる」という外国語副作用の研究も、この問題意識と無関係ではありませんでした。アメリカ人の態度には、「自分たちは知的に優越しているのだ」という意識がしばしば滲み出ていますが、そうした自信は、アメリカ人がいつも母語を使えることからくる錯覚にすぎない場合も多いのだということを知ってもらいたかったのです。
4) 病気
これは研究のテーマとはあまり関係がありませんが、研究の質と量には大いに影響しました。アメリカの大学で博士号を授与されたその日の晩に高熱を発して寝込んで以来、健康状態が坂道を転がり落ちるように悪化していき、以後、二十年以上にわたって、さまざまな病気に見舞われました。50歳を過ぎてからの数年間、ほとんどの病気から解放された時期もありましたが、研究者人生の大半は闘病生活で空費してしまいました。
病気で寝ていなければならないときも、病院通いをしなければならないときも、授業や校務は何とか続けなければなりませんから、研究に使える時間はどうしても限られてしまいます。時間がとれるときでも、体を動かすたびに激痛が走るような状態では、とても研究には集中できません。いちばん長かった病気は、思考力や記憶力の低下を伴う病気でしたので、これでは良い研究ができるはずもありません。病気のため、ほぼ四半世紀のあいだ海外の学会には行けませんでしたが、そのためにどれほどの機会利益を失ったのか、これは見当もつきません。
そろそろ研究者人生も終わりに近づいてきましたが、博士号を授与されたときに漠然とイメージしていた「将来の研究成果」と比べれば、その10分の1も達成できていないというのが現実です。まだ研究をやめたわけではありませんが、定年退職の年齢になって、これからの努力で取り返せるというものでもないでしょう。せめて、データのままで眠っている研究成果だけでも、何とかして世に出しておきたいものです。