日本人は集団主義的か?

◆ 「日本人 = 集団主義」説

いわゆる「日本人論」(あるいは「日本文化論」)では、長らく「欧米人は個人主義的だが、日本人は集団主義的だ」と言われてきました。この「日本人 = 集団主義」説は日本人論の根幹をなしていて、これまで、数えきれないほどの書物、新聞記事、雑誌記事、テレビやラジオのコメントなどで延々と繰り返されてきました。海外では、「集団主義」は、ほとんど日本人の代名詞にまでなっています。

この「日本人 = 集団主義」説からは、核心部分は同じで装いだけを少し変えたいろいろな説、たとえば、「恥の文化」論や「タテ社会」論、「甘え」論などが派生してきました。心理学の分野でも、1990年代に「自己観理論」が登場し、心理学的な比較文化研究を席巻しました。

「日本人の集団主義」は、日本のさまざまな社会現象を説明するために、いわば「基本原理」として、しばしば援用されてきました。日本の軍国主義、高度経済成長、学校での「いじめ」などです。たとえば、「いじめ」は、「異質なものを排除しようとする、集団主義的な日本社会に特有の現象」だと言われてきました。

また、「集団主義的な日本人」は、「個性がない」「個我が確立していない」「常に集団で行動する」「みんなと同じでなければ安心できない」「自律的に考え行動することができない」「創造性がない」などと言われてきました。

「世界でいちばん集団主義的」だと言われてきた日本人とは対照的に、アメリカ人は「世界でいちばん個人主義的」だと言われてきました。個人主義が、アメリカの民主主義や自由主義経済を根底で支えてきたというのです。

しかし、私はアメリカで数年間暮らしているうちに、この通説に疑問を抱くようになりました。日々接していたアメリカ人の言動が日本人の言動とそう違っているようには思えなかったからです。細かいことを取り上げれば、表面的な違いはいろいろありましたが、それが本質的な違いであるとは思えなかったのです。

◆ 心理学的な日米比較研究

そこで、日本に帰ってきてから、集団主義・個人主義に関する心理学的研究の中で、「世界でいちばん集団主義的」な日本人と「世界でいちばん個人主義的」なアメリカ人を直接比較した実証的研究を調べてみました。全部で19件の研究が見つかったのですが、その中には、いわゆる「アンケート調査」の形式でいろいろな質問に答えてもらう「質問紙研究」と、実験室の中でじっさいの行動を調べる「行動研究」の両方が含まれていました。

それら19件の研究の結果を分類すると、下の図のようになりました。

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「日>米」は、「日本人の方がアメリカ人より集団主義的(アメリカ人の方が日本人より個人主義的)」という結果を表しています。「日本人 = 集団主義」説を支持する結果です。こういう結果を報告していた研究はわずか1件しかありませんでした。

「日=米」は、「日本人とアメリカ人とのあいだには統計的に有意な差はなかった」(平均値には違いがあったとしても、それは誤差の範囲内だと考えられる)という結果を表しています。これは「日本人 = 集団主義」説に反する結果ですが、こういう結果を報告していた研究は19件中13件でした。

最後に、「日<米」は、「日本人 = 集団主義」説とは逆に、「アメリカ人の方が日本人より集団主義的(日本人の方がアメリカ人より個人主義的)」という結果を表しています。「日本人 = 集団主義」説とは正反対の結果です。こういう結果を報告していた研究が何と5件もあったのです。

この結果のパターンは、質問紙研究と行動研究のどちらにも共通していました。

ときには、研究者が抱いている信念が研究結果をねじ曲げてしまうこともあるのですが、これら19件の研究のほとんどは「日本人 = 集団主義」説の支持者によっておこなわれた研究でしたから、そうした可能性は考慮しなくて済みます。

したがって、実証的研究の結果は、「日本人 = 集団主義」説が事実ではないことを示していると考えることができるでしょう。数えきれないほどの人たちが長年にわたって「日本人は集団主義的だ」と説きつづけてきたことを思えば、これはまことに驚くべき結果です。しかし、私の実感とは齟齬のない結果でした。

◆ 他の分野の実証データ

「日本人 = 集団主義」説は、日本語や日本経済など、日本文化のいろいろな面について、説明原理として使われてきました。そこで、心理学以外の分野でも「日本人の集団主義」を検証した信頼に足る実証的な研究やデータがないか、探してみました。すると、経済学、言語学、教育社会学の分野でそういう研究やデータが見つかりました。

経済学の分野では、長年、「日本の経済は集団主義的だ」と言われてきました。終身雇用、年功賃金、企業内組合といった仕組みのもとで、日本の労働者は経営者と一丸になって企業に忠誠を尽くしているという「日本的経営」論です。その企業も「系列」という集団で行動し、それどころか、政府の産業政策に導かれて、日本全体が「日本株式会社」という一枚岩の集団となって海外に貿易戦争をしかけている、という図式も描かれてきました。

しかし、労働経済学を専門とする小池和男教授(名古屋大学、京都大学、法政大学)は、さまざまな経済統計を参照して、「終身雇用」や「年功賃金」という点については、日本と欧米諸国とのあいだに目立った違いはないことを明らかにしていました。「企業内組合」についても、それは欧米にもあって、日本とのあいだに明確な違いがあることを示す経済統計は存在しないことを指摘していました。

また、三輪芳朗教授(東京大学、大阪学院大学)は、膨大な経済資料を分析して、「系列」には実態がないこと、政府の産業政策が日本経済の発展に果たした役割はきわめて限定されたものでしかなかったことを明らかにしていました。

一方、日本語については、「その特性は、日本人が個人として自立しておらず、家族や企業などの所属集団と一体化していることを示している」と言われてきました。これに対して、廣瀬幸生教授(筑波大学)と長谷川葉子教授(カリフォルニア大学)は、日本語には、集団からは独立した個人の存在を反映する特徴が存在することを明らかにしていました。

学校での「いじめ」は、日本では、1980年代にマスメディアで大々的に報道されてから、その存在が広く認識されるようになりました。当時は、アメリカでは「いじめ」は報道されていなかったので、アメリカには「いじめ」はないと思われていて、「いじめ」の原因は「異質なものを排除しようとする日本人の集団主義」なのだと盛んに論じられました。アメリカでも、「日本でいじめを苦にした中学生が自殺した」というニュースは、テレビでも新聞でも、「日本人の集団主義が原因」という解釈とともに報道されました。

ところが、「いじめ」について日本とアメリカを比較した研究を探してみると、「いじめ」を受けたり見聞きしたりした割合は、アメリカの中学生のほうが高いという結果になっていたのです。

その後、アメリカでも「いじめ」がマスメディアで報道されるようになり、「いじめ」を苦にしての自殺者も少なくないことがわかってきました。その結果、2011年にはオバマ大統領が演説で「いじめを撲滅しよう」と呼びかける事態にまで至っています。

マスメディアで広く報道されるようになるまでは、「いじめ」は社会問題としてはなかなか意識されないのですが、日本で「いじめ」が報道されるようになったのは比較的早いほうでした。しかし、ヨーロッパには、日本より早くから「いじめ」がマスメディアで取り上げられた国もありますし、アメリカは遅いほうだったといえるでしょう。アメリカには、金属探知機を設置して凶器の持込を監視している学校もあるぐらいで、校内暴力が深刻な社会問題になっていたために、「いじめ」はその陰にかくれて目立たなかったのかもしれません。いずれにしても、「いじめ」は「集団主義的な日本社会に特有の現象」ではないのです。

◆ エピソード

この研究をしているうちに、私より前に「日本人 = 集団主義」説を批判していた人たちがいたことを知りました。日系アメリカ人の人類学者ハルミ・ベフ(別府春美)、そして、社会学者の杉本良夫とロス・マオア(Ross Mouer)です。かれらは社会学や歴史学の資料を使って、「日本人 = 集団主義」説は事実に反すると論じていました。

杉本教授とマオア教授は、日本人論の代表的な書物を何冊か分析して、「日本人は・・・だ」という言明には、実証的な研究の裏づけがほとんどなく、エピソードや体験談、伝聞、ことわざなどに大きく依存していることを明らかにしました。たとえば、「日本人の集団主義」の証拠としては「出る杭は打たれる」ということわざを引き、「アメリカ人の個人主義」の証拠としては「ギーギーいう車輪は油をさしてもらえる」(「自己主張をすると得をする」の意)ということわざを引くという具合にです。

かれらは、そうした事例が恣意的に選択されていると指摘し、恣意的な選択が認められるのなら、どのような主張でも立証できることになってしまうと論じました。たとえば、日本のことわざから「先んずれば人を制す」を選び、アメリカのことわざから「高い木には風当たりが強い」を選べば、「日本人はアメリカ人より個人主義的だ」という正反対の主張を立証することもできるというわけです。

私は新聞や雑誌の記事を広く調べてみましたが、アメリカ人の個人主義的な行動を記している記事もある一方で、アメリカ人の集団主義的な行動を記している記事もたくさん見つかりました。日本人についても、集団主義的な行動の例と同様、個人主義的な行動の例もたくさん見つかりました。これらを恣意的に選択すれば、杉本教授とマオア教授が指摘したように、どのような主張も立証できてしまうでしょう。やはり、きちんとした実証的研究の結果にもとづいて判断をする必要があるわけです。

◆ 「日本人 = 集団主義」説の由来

しかし、「日本人 = 集団主義」説に反する実証的な証拠を目にしても、たいがいの人は考えを変えません。「日本人は集団主義的だ」という信念は揺るがないのです。自分自身がおこなった研究の結果がこの通説に反するものだった研究者ですら、依然として「日本人は集団主義的」だと主張しつづけています。

なぜでしょうか? 調べてみると、どうやら、その理由は「みんなが昔からそう言っている」ということにつきるようです。「みんなが昔からそう言っているのだから確かだろう。自分の研究では、日本人が集団主義的だという結果にはならなかったが、それは何か特殊な要因が働いたせいで、例外的な結果にちがいない」というわけです。

では、「みんなが昔からそう言っている」ということになったのは何故なのでしょうか? 調べてみると、「日本人 = 集団主義」説の源は、明治時代、日本について皮相な観察をしたアメリカ人が「日本人には個性がない」と言い出したことが始まりらしいとわかりました。日本をよく知らない欧米人がその言葉を信じたところから「日本人 = 集団主義」説が成立したようなのです。

では、日本をよく知っているはずの日本人自身がこの説を信じるようになったのは何故なのでしょうか? その理由は、心理学で実証されているいくつかの思考のバイアスによって説明できることもわかりました。

つまり、「みんなが昔からそう言っている」ということは、「日本人 = 集団主義」説が正しいことの証拠にはならないわけです。

◆ 通説の支持者たちとの論争

私のこの研究は、「日本人 = 集団主義」説から派生した自己観理論の支持者たちから批判を受け、2度ほど学術雑誌で議論をする機会がありました。詳しい内容はその雑誌に掲載された論文で確認することができますが、ここでは2つほどやりとりを記しておくことにします。

批判の1つは、検討の対象とする研究を私たち(私と論文の共著者)が恣意的に選んだという批判でした。私たちが検討しなかった多くの研究が「日本人 = 集団主義」説を支持しているというのです。

じっさいには、私たちは研究を恣意的に選んだわけではなく、日本人とアメリカ人を直接比較した、集団主義・個人主義に直接関連する研究は、残らず検討の対象としました。それが上にあげた19件の研究です。

通説を支持している多くの研究の例として批判者があげた研究は、たとえば、「報酬配分の方法について、アメリカ人と香港に住む中国人とのあいだには違いがあった」という研究でした。

しかし、報酬配分の方法は「集団主義」「個人主義」を定義している概念ではありませんから、報酬配分の方法を比較しても、ほんとうに集団主義・個人主義について比較をしたことになるのかどうか、判然としません。

それに、なによりも、アメリカ人と中国人を比較した研究の結果から「日本人はアメリカ人より集団主義的だ」と主張するのは無茶ではないか、というのが私の返答でした[文献4]。自己観理論では、集団主義・個人主義という点では、東アジアの文化はみな同じだとア・プリオリに仮定しているので、中国人についての研究を引き合いに出したのでしょうが、中国と日本のあいだには多くの文化的な違いがあるのですから、集団主義・個人主義に関して「同じだ」とア・プリオリに仮定してしまうのは、やはり乱暴すぎます。

別の批判者は、「同調行動の実験で日本人とアメリカ人のあいだに差が出なかったのは、日本人の被験者が同じ内集団に属していなかったからではないか」という指摘をしました。「同調行動」というのは、集団の多数意見に盲従してしまうという行動で、集団主義の典型的な行動です。日本人がほんとうに集団主義的だとすれば、集団に同調する程度はアメリカ人の場合より高くなるはずですが、それまでの研究では、日本人とアメリカ人のあいだに違いは見られなかったのです。

「内集団」というのは、「自分が所属している」と感じている集団のことで、その例としてよくあげられるのは、家族や会社、学校、サークルなどです。同調行動の実験では、5人から9人程度の小集団のなかで人々がどう振る舞うかを調べます。日本人論では、「日本人は内集団のなかでだけ集団主義的に行動する」と言われることも多いので、「実験に参加した人たちが同じ内集団に属していなかったので、日本人が集団主義的に行動しなかったのではないか」という指摘が出てきたわけです。

この批判があたっているかどうかを調べるために、私は日本人の大学生を対象として同調行動の実験をやってみました。この批判者は、大学のサークルは「内集団」だと認めていたので、同じサークルに所属する大学生の小集団をつくって、その中での同調行動を調べました。実験結果を見ると、集団に同調する程度は、それまでの日本での実験とも、アメリカでの実験とも変わりませんでした[文献6]。同じ内集団に属しているからといって、同調しやすくなるというわけではなかったのです。結局、同調行動に現れる集団主義の程度には、日米間に差はなかったということになります。

◆ まとめ

「日本人 = 集団主義」説は、実証的な研究には支持されていません。そのことを指摘した私たちの研究に対する批判は、いずれも当を得たものではありませんでした。「日本人 = 集団主義」説が成立し、広い支持を獲得してきたという事実は、この説が正しいことを物語っているわけではなく、思考のバイアスによって合理的に説明することができます。したがって、「日本人 = 集団主義」説は誤りだと考えるのが、現時点では最も妥当な判断だということになるでしょう。

髙野陽太郎  『「集団主義」という錯覚 ― 日本人論の思い違いとその由来』 (新曜社  2008年)

この本には、この話を詳しく記しました。ここでは触れなかった話題や事例、議論もたくさん収録しています。

 

◆ 文献

以下の文献のうち、1、4、9、10 はインターネットで公開されています。

1.高野陽太郎・纓坂英子 (1997) 「“日本人の集団主義”と“アメリカ人の個人主義”― 通説の再検討」 心理学研究, 68, 312-327.

高野・纓坂 (1997)

2.高野陽太郎 (1998) 「『国民性』の危険性」 現代のエスプリ, 372,  125-131.

3.高野陽太郎・纓坂英子 (1998) 「日本人はアメリカ人より集団主義的か? ― データに支持されない通説」 対人行動学研究,16, 2-4.

4.高野陽太郎 (1999) 「集団主義論争をめぐって ― 北山氏による批判の問題点」 認知科学, 6, 115-124.

高野 (1999 認知科学)

5.Takano, Y. & Osaka, E. (1999)  An unsupported common view:
Comparing Japan and the U.S. on individualism/collectivism.  Asian Journal of Social Psychology, 2, 311-341.

6. Takano, Y. & Sogon, S.  (2008)  Are Japanese more collectivistic than Americans?:  Examining conformity in in-groups and the reference-group effect.  Journal of Cross-Cultural Psychology, 39, 237-250.

7.高野陽太郎 (2010)   書評シンポジウム: 高野陽太郎著『「集団主義」という錯覚」 ― 日本人論の思い違いとその由来』 「著者による原著の紹介」「書評にこたえて」 『児童心理学の進歩 2010年版』 金子書房 282-284, 306-313.

8.Takano, Y. (2013)   Japanese culture explored through experimental design.  In A. Kurylo (Ed.), Inter/Cultural Communication. Los Angeles: Sage. 405-412.

9.高野陽太郎・伊藤言(2016) 「16世紀に渡来した宣教師は日本人を“集団主義的”と評したか?」 『心理学研究』 86, 584-588.

高野 & 伊藤 (2016)

10.高野陽太郎 (2017) 「日本人は集団主義」という幻想 『現代ビジネス』 (講談社)

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52478