トリック in 「メビウスの輪とシオマネキ」(2023年9月)

先日、メビウスの輪の上を移動するシオマネキの動画を紹介しました。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Fiddler_crab_mobius_strip.gif

動画を紹介したページをまだご覧になっていない方は、まずそちらをご覧ください(「メビウスの輪とシオマネキ」)。

この動画では、シオマネキの大バサミが右にきたり左にきたりして、左右が確定しないように見えます。しかし、動画を見ているうちに、この印象はトリックが生み出した錯覚だということに気づきました。

トリックは2つあります。

ひとつは、この動画ではメビウスの輪が粗い格子で描かれていて、実質的には透明だということです。

もうひとつは、シオマネキが平面パターンとして描かれていて、表と裏が区別できないということです。実物のシオマネキなら、背側と腹側とは見た目がはっきり違います。たとえば、腹側にはハサミの付け根がありますが、それは背側からは見えません。

動画の最初で、スタート地点にいるシオマネキの大バサミは右側にあったとします。メビウスの輪を1周してスタート地点に戻ると、大バサミは左にきています。「左右が不確定」に感じられる所以です。しかし、実際には、このとき1周はしておらず、半周しかしていません。シオマネキは最初のスタート地点の裏側に来ているのです。

「メビウスの輪には1つの面しかない」といっても、それは「2つの面が切れ目なしに続いている」ということであって、メビウスの輪のどの地点をとっても、表と裏の両面があります。

半周したシオマネキは、スタート地点の裏側に来ているのです。しかし、この動画ではメビウスの輪は実質的に透明なので、「裏側に来ている」ということが見てとれません。もしメビウスの輪が不透明なら、シオマネキは裏側に来ているので見えなくなっており、「1周した」という錯覚は生じないでしょう。

最初のスタート地点でシオマネキが背側をこちらに向けていたとすると、半周してスタート地点の裏側に来たシオマネキは、腹側をこちらに向けていることになります。しかし、この動画では、シオマネキは平面パターンとして描かれているので、「腹側を向けている」ということがわかりません。

最初、スタート地点で右にあった大バサミは、半周したときには左にきています。このことから「左右が不確定」という印象が生まれるのですが、実物のシオマネキなら、背側から見たときに右にあった大バサミが、シオマネキをひっくりかえして腹側から見たとき左側に見えるのは当然で、何の不思議もありません。

このことは、紙でメビウスの輪を作って試してみれば、すぐにわかります。シオマネキの小さな模型があればベストですが、たとえばクワガタムシの小さな模型をもってきて、ハサミの片方をもぎ取り(ごめん)、メビウスの輪の上を移動させてみれば、一目瞭然です。

一般に、上下・前後・左右ともに非対称な物体(たとえば、シオマネキの実物や模型)は、そのうちの1方向を軸として180゜回転すると、残りの2方向が反転します。たとえば、上下方向を軸にして180゜回転すると、前後と左右が反対になります。これは単純な幾何学的事実です。

メビウスの輪を半周したシオマネキがスタート地点の裏側に来たとき、上下方向には360゜の回転をしたことになるので、回転をしなかったのと同じことになり、上下方向は最初と変わりません。最初に上を向いていたシオマネキは、やはり上を向いています。

しかし、メビウスの輪のねじれに沿って移動してきたシオマネキは、スタート地点の裏側に来たときには、上下軸を中心とした180゜の回転をしています。つまり、前後と左右が反転していることになります。前後が反転した結果、最初はこちらに背を向けていたシオマネキが、半周した後ではこちらに腹を向けています。左右が反転した結果、最初は右にあった大バサミが左にきています。それだけのことなのです。

もう半周して(つまり、ほんとうに1周して)、元の面の(ほんとうの)スタート地点に戻ってきたときには、上下方向の360゜回転を2回したことになるので、上下方向は最初と変わりません。上下軸を中心とした180゜の回転も2回しているので、360゜の回転をしたことになり、前後も左右も元どおりになります。最初と同じく、シオマネキは上を向いていて、こちらに背を向けていて、大バサミは右にあります。当然の結果です。

メビウスの輪には何も神秘的なところはありません。この動画のメビウスの輪が神秘的に見えるのは、2つのトリックのせいなのです。つまり、メビウスの輪が透明に描かれ、シオマネキが平面パターンとして描かれているせいなのです。

では、メビウスの輪の実物を透明なシートで作ってみたらどうでしょう? 半周してスタート地点の裏側に来たシオマネキは、目に見えるでしょう。しかし、背側ではなく、腹側が見えるでしょう。メビウスの輪が透明だと、シートに裏表があることは、見てとることはできないかもしれませんが、裏表の両面があることは紛れもない事実です。半周したシオマネキがシートの向こう側にいることも、紛れもない事実です。

では、実物の(3次元物体の)シオマネキではなく、2次元パターンのシオマネキが透明なメビウスの輪の上を移動した場合はどうでしょう? たしかに背と腹を見分けることはできないでしょう。しかし、メビウスの輪は3次元物体です。そのメビウスの輪の屈曲にしたがって屈曲しながら移動するシオマネキは、純粋の2次元パターンとは言えません。3次元の立体です。立体なら、見分けがつこうがつくまいが、表と裏の両面があります。半周してスタート地点の裏側に来たとき、シオマネキがこちらに裏側を向けているという事実は変わらないわけです。

よく「メビウスの輪は non-orientable だ」と言われます。orientable という言葉は、哲学者のカントに由来するそうですが、non-orientable というのは、「実物とその鏡像が区別できない」あるいは「時計まわりと反時計まわりが区別できない」という意味で使われます。

背側から見たとき大バサミが右にあるシオマネキを、横に立てた鏡に映すと、鏡に映ったシオマネキは、大バサミが左にあるように見えます。鏡に映すと、鏡面に垂直な方向が反転して見えるというのが光学法則ですが、鏡を横に置いた場合には、左右方向が鏡面と垂直になるので、左右が反対になって見えるのです。

シオマネキの大バサミが右にあるとき、付け根から尖端に向かう方向は「反時計まわり」になりますが、大バサミが左にあるときには、その方向は「時計まわり」になります。

ウィキペディアの動画は、メビウスの輪が non-orientable であることの何よりの証拠だと論じられていますが、メビウスの輪の上を移動するシオマネキの場合、右と左、あるいは、「反時計まわり」と「時計まわり」は区別できないでしょうか? そんなことはありません。

これまで見てきたとおり、背側から見たときにシオマネキの右にある大バサミは、メビウスの輪の上をどう移動しても、シオマネキにとって右にあることに変わりはありません。言い換えると、シオマネキの形態にもとづいて上下・前後・左右を決めたとき、右にある大バサミは右のままで、左に移ることはありません。メビウスの輪を半周したとき、大バサミが左に移ったように見えたとしても、それは前後が反転していることに気づかなかったというだけのことにすぎません。

メビウスの輪は、実は non-orientable ではないのです。