先月末に出版された英語の本では、ネイティヴ・スピーカーによる英文校正を受けたのですが、校正者たちが英語について正確な知識を持っておらず、文意を正確に理解しようという意志も持っておらず、浅薄な理解にもとづいて、いい加減な書き直しをしてくるので、原稿を守るために、校正者たちを相手に延々と闘いを続けなければなりませんでした。日本人のあいだではネイティヴ・スピーカー信仰が強いので、ネイティヴ・スピーカーの実像を理解するための一助になればと思い、私の体験を綴って、講談社のウェブマガジン『現代ビジネス』に掲載しました。
カテゴリー: 最近の活動
ケンブリッジ大学出版局のブログに記事を掲載(2024年11月)
28日に発売される新著の宣伝も兼ねて、ケンブリッジ大学出版局のブログに記事を書かないかという要請を受けたので、1500語ほどの短い文章を書きました。今日(11月26日)、それが公開されました。
https://cambridgeblog.org/2024/11/culture-is-destiny/
この文章では、本の内容をかんたんに要約しましたが、読み物としても少しは面白くなるように、多少、工夫をしてみました。
新著、欧米で発売(2024年11月)
新著 Cultural Stereotype and Its Hazards: “Japanese Collectivism” as a Case が、11月28日に、ケンブリッジ大学出版局から、ヨーロッパと北米で発売されることになりました。
ここ4年ほどのあいだ私は、この本の執筆・製作に全力を注いできました。この本では、「日本人 = 集団主義」説がいかに現実とかけ離れているかを実証した上で、そこで得られた知見を踏まえて、文化ステレオタイプ一般について、その歪みと危険性を明らかにしました。
この本のテーマは、日本語で出版した『「集団主義」という錯覚 』(2008年)や『日本人論の危険なあやまち』(2019年)と基本的には同じですが、これらの本が読者として一般の読書人も想定していたのに対し、今回の本は読者として研究者(大学院生を含む)だけを想定しています。
しかし、社会心理学者だけを対象にしているわけではなく、文化の問題に関心をもっている様々な分野の研究者(人類学者、社会学者、政治学者など)にも、抵抗なく読んでもらえるように書き方を工夫しました。議論の内容も、心理学だけではなく、文化人類学、経済学、歴史学など、さまざまな分野に渡っており、この本に推薦文を寄せてくださったカリフォルニア大学の David Funder 教授も、ニューヨーク大学の James Uleman 教授も、異口同音にこの本を wide-ranging と評しています。
産経新聞への寄稿 紙面に掲載(2023年10月)
「日本人 = 集団主義」説は事実に反するという主旨の文章が、10月22日の紙面に掲載されました。
「誤った日本人観」「私たちは『集団主義』的なのか」等の見出しがついていますが、いずれも新聞社がつけた見出しです。見出しについては、新聞社の意向に従わざるを得ないだろうと思って、私は最初から見出しをつけませんでした。新聞社の中でもいろいろと意見があったようで、二転三転した末に、今の見出しに落ち着きました。
産経新聞への寄稿 電子版の公開(2023年10月)
産経新聞から寄稿の依頼があり、「日本人 = 集団主義」説が事実に反することを指摘する記事を書きました。本日(10月17日)、その記事が産経新聞の電子版(有料)に掲載されました。
記事は「日本は同調圧力が凄い」という最近の俗説の批判から始めていますが、その部分を除けば、過去30年以上に渡って続けてきた「日本人 = 集団主義」説批判の研究成果を最もコンパクトにまとめたダイジェストになっています。
産経新聞では、10月22日の紙面に掲載される予定だそうです。
トリック in 「メビウスの輪とシオマネキ」(2023年9月)
先日、メビウスの輪の上を移動するシオマネキの動画を紹介しました。
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Fiddler_crab_mobius_strip.gif
動画を紹介したページをまだご覧になっていない方は、まずそちらをご覧ください(「メビウスの輪とシオマネキ」)。
この動画では、シオマネキの大バサミが右にきたり左にきたりして、左右が確定しないように見えます。しかし、動画を見ているうちに、この印象はトリックが生み出した錯覚だということに気づきました。
トリックは2つあります。
ひとつは、この動画ではメビウスの輪が粗い格子で描かれていて、実質的には透明だということです。
もうひとつは、シオマネキが平面パターンとして描かれていて、表と裏が区別できないということです。実物のシオマネキなら、背側と腹側とは見た目がはっきり違います。たとえば、腹側にはハサミの付け根がありますが、それは背側からは見えません。
動画の最初で、スタート地点にいるシオマネキの大バサミは右側にあったとします。メビウスの輪を1周してスタート地点に戻ると、大バサミは左にきています。「左右が不確定」に感じられる所以です。しかし、実際には、このとき1周はしておらず、半周しかしていません。シオマネキは最初のスタート地点の裏側に来ているのです。
「メビウスの輪には1つの面しかない」といっても、それは「2つの面が切れ目なしに続いている」ということであって、メビウスの輪のどの地点をとっても、表と裏の両面があります。
半周したシオマネキは、スタート地点の裏側に来ているのです。しかし、この動画ではメビウスの輪は実質的に透明なので、「裏側に来ている」ということが見てとれません。もしメビウスの輪が不透明なら、シオマネキは裏側に来ているので見えなくなっており、「1周した」という錯覚は生じないでしょう。
最初のスタート地点でシオマネキが背側をこちらに向けていたとすると、半周してスタート地点の裏側に来たシオマネキは、腹側をこちらに向けていることになります。しかし、この動画では、シオマネキは平面パターンとして描かれているので、「腹側を向けている」ということがわかりません。
最初、スタート地点で右にあった大バサミは、半周したときには左にきています。このことから「左右が不確定」という印象が生まれるのですが、実物のシオマネキなら、背側から見たときに右にあった大バサミが、シオマネキをひっくりかえして腹側から見たとき左側に見えるのは当然で、何の不思議もありません。
このことは、紙でメビウスの輪を作って試してみれば、すぐにわかります。シオマネキの小さな模型があればベストですが、たとえばクワガタムシの小さな模型をもってきて、ハサミの片方をもぎ取り(ごめん)、メビウスの輪の上を移動させてみれば、一目瞭然です。
一般に、上下・前後・左右ともに非対称な物体(たとえば、シオマネキの実物や模型)は、そのうちの1方向を軸として180゜回転すると、残りの2方向が反転します。たとえば、上下方向を軸にして180゜回転すると、前後と左右が反対になります。これは単純な幾何学的事実です。
メビウスの輪を半周したシオマネキがスタート地点の裏側に来たとき、上下方向には360゜の回転をしたことになるので、回転をしなかったのと同じことになり、上下方向は最初と変わりません。最初に上を向いていたシオマネキは、やはり上を向いています。
しかし、メビウスの輪のねじれに沿って移動してきたシオマネキは、スタート地点の裏側に来たときには、上下軸を中心とした180゜の回転をしています。つまり、前後と左右が反転していることになります。前後が反転した結果、最初はこちらに背を向けていたシオマネキが、半周した後ではこちらに腹を向けています。左右が反転した結果、最初は右にあった大バサミが左にきています。それだけのことなのです。
もう半周して(つまり、ほんとうに1周して)、元の面の(ほんとうの)スタート地点に戻ってきたときには、上下方向の360゜回転を2回したことになるので、上下方向は最初と変わりません。上下軸を中心とした180゜の回転も2回しているので、360゜の回転をしたことになり、前後も左右も元どおりになります。最初と同じく、シオマネキは上を向いていて、こちらに背を向けていて、大バサミは右にあります。当然の結果です。
メビウスの輪には何も神秘的なところはありません。この動画のメビウスの輪が神秘的に見えるのは、2つのトリックのせいなのです。つまり、メビウスの輪が透明に描かれ、シオマネキが平面パターンとして描かれているせいなのです。
では、メビウスの輪の実物を透明なシートで作ってみたらどうでしょう? 半周してスタート地点の裏側に来たシオマネキは、目に見えるでしょう。しかし、背側ではなく、腹側が見えるでしょう。メビウスの輪が透明だと、シートに裏表があることは、見てとることはできないかもしれませんが、裏表の両面があることは紛れもない事実です。半周したシオマネキがシートの向こう側にいることも、紛れもない事実です。
では、実物の(3次元物体の)シオマネキではなく、2次元パターンのシオマネキが透明なメビウスの輪の上を移動した場合はどうでしょう? たしかに背と腹を見分けることはできないでしょう。しかし、メビウスの輪は3次元物体です。そのメビウスの輪の屈曲にしたがって屈曲しながら移動するシオマネキは、純粋の2次元パターンとは言えません。3次元の立体です。立体なら、見分けがつこうがつくまいが、表と裏の両面があります。半周してスタート地点の裏側に来たとき、シオマネキがこちらに裏側を向けているという事実は変わらないわけです。
よく「メビウスの輪は non-orientable だ」と言われます。orientable という言葉は、哲学者のカントに由来するそうですが、non-orientable というのは、「実物とその鏡像が区別できない」あるいは「時計まわりと反時計まわりが区別できない」という意味で使われます。
背側から見たとき大バサミが右にあるシオマネキを、横に立てた鏡に映すと、鏡に映ったシオマネキは、大バサミが左にあるように見えます。鏡に映すと、鏡面に垂直な方向が反転して見えるというのが光学法則ですが、鏡を横に置いた場合には、左右方向が鏡面と垂直になるので、左右が反対になって見えるのです。
シオマネキの大バサミが右にあるとき、付け根から尖端に向かう方向は「反時計まわり」になりますが、大バサミが左にあるときには、その方向は「時計まわり」になります。
ウィキペディアの動画は、メビウスの輪が non-orientable であることの何よりの証拠だと論じられていますが、メビウスの輪の上を移動するシオマネキの場合、右と左、あるいは、「反時計まわり」と「時計まわり」は区別できないでしょうか? そんなことはありません。
これまで見てきたとおり、背側から見たときにシオマネキの右にある大バサミは、メビウスの輪の上をどう移動しても、シオマネキにとって右にあることに変わりはありません。言い換えると、シオマネキの形態にもとづいて上下・前後・左右を決めたとき、右にある大バサミは右のままで、左に移ることはありません。メビウスの輪を半周したとき、大バサミが左に移ったように見えたとしても、それは前後が反転していることに気づかなかったというだけのことにすぎません。
メビウスの輪は、実は non-orientable ではないのです。
メビウスの輪とシオマネキ(2023年9月)
光学の論文を読んでいて、メビウスの輪をつかった面白い動画がウィキペディアに載っていることを知りました。
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Fiddler_crab_mobius_strip.gif
メビウスの輪は、よく知られているように、長方形の紙を一度ひねってから端と端を貼り合わせて輪にしたものです。元の紙には表と裏の2つの面がありますが、メビウスの輪にはひと続きの面しかありません。
ひねらずに端と端を貼り合わせた普通の輪なら、表の面のある地点からスタートしてその地点に戻ってくるまで、表の面しか通りません。裏の面を通るためには、どこかで紙の端を横切って裏側にまわらなければなりません。ところが、メビウスの輪の場合は、ある地点からスタートすると、その地点に戻ってくるまでに、自然に全ての面を通ることになります。端を横切って裏側にまわる必要はありません。
上記の動画では、このメビウスの輪の上をシオマネキの絵が移動していきます。ハサミの片方だけが異様に大きい蟹です。スタート地点で大バサミが右側にあったとすると、メビウスの輪を1周してスタート地点に戻ったときには、いつのまにか大バサミは左側にきています。もう1周してスタート地点に戻ると、大バサミはまた右側にきています。これが何度でも繰り返される、という動画です。
右にあったはずの大バサミが左、また右、という具合に入れ替わるので、左右の区別が曖昧になったような不思議な印象を受けます。「これぞ、メビウスの輪の神秘!」?
...に見えますが、実は、どこにも神秘的なところはありません。この動画にはトリックがあって、それがいわば「目の錯覚」を生じさせているのです。では、どういうトリックなのか? それについては、また後日。
英語の著書の原稿、完成(2023年7月)
3年前(2020年7月)、英語で著書を出版するという契約を Cambridge University Press と交わしました。「日本人は集団主義的だ」という日本人論の通説が事実にはそぐわないということを論証する学術書です。日本語では、ほぼ同じ内容の著書を既に2冊刊行していたので(『「集団主義」という錯覚』『日本人論の危険なあやまち』)、「2年あれば余裕で書き終えられるだろう」と思い、原稿の締切を2年後(2022年9月)にしてもらいました。
以後、原稿の執筆に全力を注いできたのですが、英語で本を書くというのは、やはり大変な仕事で、結局、2年では書き上げることができませんでした。今回の本は、内容が、専門分野である認知心理学だけではなく、社会心理学やパーソナリティ心理学、さらには、経済学や人類学、歴史学などにまで及ぶので、使い慣れた単語や言いまわしだけではとても足りず、適切な英語表現を見つけるには膨大な時間を要しました。たとえば、「談合を暴くために、アメリカ政府は1978年に課徴金減免制度を導入した。談合に参加した企業が自発的に談合を当局に通報すれば、その企業は課徴金を免除されるか減額されるという制度である」などという文を英語で書かなければならなかったからです。
今回は学術書であり、また、前著から内容を大幅に拡充したので、さまざまな分野に渡って、数多くの論文や専門書を読まなければなりませんでした。これにも膨大な時間を費やしました。
締切の期日から半年余り、今年の5月はじめになって、ようやく原稿を書き終えました。表題は、Cultural Stereotype and Its Hazards: “Japanese Collectivism” as a Case です。「日本人 = 集団主義」説を事例として分析することによって、文化ステレオタイプの特性とその危険性を明らかにする、という本です。
原稿は、Culture & Psychology シリーズの責任編集者(研究者)に送られ、彼のコメントにもとづいて意見交換をしたり、改善を加えたりしました。たとえば、彼が「個人レベルのデータでは日米差がなかったとしても、国家レベルで日米差がある可能性は否定できないのではないか」というコメントを付けてきたので、「国家レベルでの集団主義・個人主義というのは、誤った研究方法に由来する錯誤にすぎない」ということを論証する項を追加しました。このプロセスには時間がかかるものと覚悟していたのですが、意外に早く終了しました。
予想外に時間がかかったのは索引の作成でした。契約に「索引は著者が作る」という一項が含まれていることは認識していたのですが、日本の出版社から本を出したときには、索引はいつも出版社が作ってくれていたので、私は索引を作った経験がありませんでした。たしかに、著者が作ったほうが役に立つ索引ができるのかもしれませんが、それにしてもかなりの作業量でした。原稿を書くのとは違って、あまり創造的な作業ではないので、負担感が大きかったのかもしれません。ワードの索引作成機能を利用したのですが、ワードにそんな機能がついていることは初めて知りました。あちこちで聞いてみたところ、欧米の出版社の場合、索引は著者が作るのが普通らしいということがわかりました。
索引つきの最終原稿ができあがったのは7月末でした。8月中は出版社がバカンスで何も進まず、9月になってから原稿が content editor に送られ、いずれ英語表現の修正や校正が始まることになると思います。出版は早くても9ヶ月後になるそうです。
『日本の死角』の刊行 (2023年5月)
現代ビジネス編『日本の死角』(講談社現代新書)が刊行されました。
2017年に、私は講談社のオンライン・マガジン『現代ビジネス』に記事を掲載し、「日本人は集団主義」という通説が国際比較データによって否定されていることを紹介しました。今回、講談社は『現代ビジネス』に掲載された記事をいくつか選んで、『日本の死角』をいう本を講談社現代新書の1冊として出版しましたが、その冒頭に、私が書いた上記の記事が採録されました。
読売新聞のインタビュー(2021年11月)
読売新聞の「リーダー論」という特集記事のための取材を受けました。「日本人 = 集団主義」説批判に立って、リーダーをどう考えるかという話を所望されました。記事は11月9日の朝刊に掲載されましたが、私が言っていないことも書いてありました。まあ、メディアのインタビューなどというのはこんなものでしょう。
日本人論/自己観理論を批判した英語論文、『認知科学』に掲載(2021年12月)
『認知科学』の第28巻第4号が刊行され、4月に採択が決定した英語の論文が掲載されました。この号は12月15日には J-STAGE で公開され、open access になります。公開された論文を ResearhGate (学術情報公開サイト)に登録すれば、このテーマに興味を持っている世界中の研究者が全文を無料で閲覧できるようになります。
この論文では、日本人論に関する実証的な日米比較研究の結果を報告しています。『甘えの構造』の中で土居健郎は、「客に飲み物を出すとき、アメリカ人はそれぞれの客に好みを尋ねるが、日本人は尋ねない」と記し、以来、日本文化の特質を表すものとして、多くの研究者がこの「文化差」に言及してきました。Markus & Kitayama (1991) は、「日本人が尋ねないのは、客の心を読むからだ」と主張しました。
しかし、研究1では、日本人回答者の過半数は、多くのアメリカ人回答者と同様、「何を飲みたいか、客に尋ねる」と回答しました。この点は、土居健郎の記述とは一致しません。「客の心を読む」と答えた回答者はほとんどいませんでした。しかし、「客に尋ねる」と答えた回答者の割合は、アメリカ人回答者の方が多かったのです。
この差をどう考えるかですが、「日本では、客にはお茶を出す」という習慣が根づいているからではないか」という仮説を立てました。この仮説にもとづいて、研究2では、お客に飲み物を出すとき何を出すか、具体的な飲み物を答えてもらいました。すると、アメリカ人回答者の場合は、水、コーク、ビール、コーヒー等々、答はバラバラになりましたが、日本人回答者の場合は、「お茶」という答が大多数を占めました。つまり、アメリカ人の方が「客に尋ねる」人が多いのは、「お客に出す定番の飲み物」が決まっていないからだと考えることができます。
日本で客にお茶を出す習慣ができたのは、コーヒーも紅茶も一般化しておらず、飲み物の選択肢が少なかった時代のことです。お客に飲み物を出すとすれば、水(湯)か酒ぐらいしかありませんでした。一方、アメリカ合衆国にはいろいろな国の人がいろいろな飲み物を持ち込んできていて、さらにコカコーラとかジンジャエールとか、新しい飲み物も沢山できました。
客に飲み物についての好みを尋ねる人が多いか少ないかは、精神文化の違いを反映しているのではなく、歴史的に形成されてきた社会習慣の違いを反映しているにすぎない、と考えた方がよさそうです。
ブルガリアの研究者と懇談(2021年9月)
慶応大学でポスドクをしているブルガリアの研究者 Plamen Akaliyski さんという人からメールが届き、集団主義・個人主義に関する私の研究に興味を持っているので、ブルガリアに帰国する前に会って話がしたい、と要請されました。パンデミックの真っ只中でもあり、危険の少ない場所を探すのに苦労しましたが、さいわい、古巣の東京大学心理学研究室で名誉教授室を借りることができたので、そこで1時間半ほど、2人だけで文化差の問題について意見交換をしました。
「同調圧力」についての記事を『現代ビジネス』に掲載(2021年8月)
オンラインマガジン『現代ビジネス』(講談社)に、「同調圧力」についての記事を掲載しました。
昨年あたりから、「日本では、諸外国より同調圧力が強い」という議論が流行っています。しかし、しっかりした根拠が示されていることはありません。
今回の記事では、大阪大学の三浦麻子先生たちのウェブ調査と、同調行動に関するこれまでの実験研究を引用して、「科学的な国際比較研究は、同調圧力についての巷の議論を支持していない」ということを読者に伝えました。
外国語副作用の英語論文、『認知科学』誌に掲載(2021年6月)
外国語副作用の実験2つを報告した英語の論文(Takano & Yagyu, 2021)が『認知科学』第28巻第2号に掲載されました。
「外国語副作用」は、「慣れない外国語を使っている最中は、一時的に思考力が低下した状態になる」という現象です。
今回の論文では、「思考が内言を伴う場合でも、外国語副作用は生じる」ということを実験で示しました。「内言」というのは、声に出さずに、心の中だけで語る言葉です。日常の言語活動(会話、交渉、議論など)には、内言が伴うことが多いと言われていますが、今回の実験結果から、そうした日常の言語活動でも外国語副作用は生じると考えることができます。
Takano & Noda (1993) 論文では、外国語副作用の存在を理論的に予測し、実験的に立証しました。Takano & Noda (1995) 論文では、英語を外国語として使っている場合、外国語副作用は欧米人(英語と同じインド・ヨーロッパ語族の言語を母語とする人々)より日本人の方がずっと大きくなることを立証しました。
今回の論文は、外国語副作用に関する私たちの論文としては、それ以来、四半世紀ぶりの論文ということになります。しかし、この論文で報告した実験を行なったのは、2001年から2002年にかけてのことでした。この論文はロジックが少しばかり込み入っているので、どの雑誌の査読者も理解してくれず、なかなか掲載には至りませんでした。今回は退職後で時間があったおかげで、すったもんだの末ではありましたが、粘り勝ちで何とか掲載に漕ぎ着けることができました。それにしても、論文の発表に20年近くかかったことになります。
Takano & Noda (1993, 1995) 論文では、「慣れない外国語を使っている最中は、一時的に思考力が低下した状態になる」という現象を「外国語効果」(foreign language effect)と呼んでいました。しかし、大学英語教育学会で研究発表をしたとき、門田修平氏から「『効果』という言葉は望ましい現象を思わせるが、『外国語効果』は望ましくない現象なので、『効果』という名称は不適切ではないか」というご指摘を受けました。たいへん尤もなご指摘だと思い、以来、この現象は「外国語効果」ではなく、「外国語副作用」(foreign language side effect)と呼ぶことにしました。論文でこの「外国語副作用」という用語を使用するのは、今回が初めてのことになります。
数年前、日本の医学界は、「副作用」という言葉の代わりに「副反応」という言葉を使う、という決定をしました。その理由として、「『副作用』と聞くと『悪い影響』を思い浮かべてしまうが、必ずしも『悪い影響』ばかりではないのだから、『副反応』という言葉に替えるのだ」という説明を聞いた覚えがあります。しかし、日常生活の中で「副反応」という言葉が使われる場面を考えてみれば、いずれは「副反応」という言葉にも「悪い影響」というイメージ(内包的意味)が染みついてしまうのは避けられないでしょう。
新型コロナウィルス対策のワクチンのニュースが、毎日、マスコミを賑わせていますが、そうしたニュースの中では「副反応」という言葉が使われているので、そのうち「副作用」という言葉は死語になってしまうかもしれません。そのとき、「副反応」という言葉に「悪い影響」というイメージが染みついていれば、「外国語副作用」は「外国語副反応」と呼び替えた方がいいでしょう。私の死後のことになるかもしれませんが、遠慮なく呼び替えてください。もっとも、英語では、「副作用」も「副反応」も side effect ですから、foreign language side effect はそのまま、ということになりますが。
日本人論/自己観理論を批判した英語論文、『認知科学』に掲載決定(2021年4月)
日本文化に関する直観的な解釈が妥当ではないことを立証した英語論文が『認知科学』誌に掲載されることになりました。
心理学における「文化研究の専門家」の圧倒的多数は、「日本人 = 集団主義」説の支持者なので、この説を批判した論文は、必ず「文化研究の専門家」である査読者によって reject され、掲載することは至難の業です。この論文も、繰り返し reject されてきました。「editor としては、Markus と Kitayama を批判する論文は掲載するわけにはいかない」と言われたこともありました。
今回は、『認知科学』の編集委員会が、「中立の研究者に査読をしていただきたい」という私の依頼を容れてくださったおかげで、ようやく掲載決定に至りました。この論文を最初に投稿したのは2001年でしたから、論文を掲載するまでに何と20年もかかったことになります。